近年の自転車を取り巻く変化と私たち所謂自転車乗りの振る舞いについて思うところを書いていこうかなと思います。
所謂自転車乗りとは
「所謂自転車乗り」とは私の勝手な分類なので認識合わせを。そのステレオタイプは
- レーパンジャージ
- ロードバイク
- 車道走行
- 30km/h巡航
- 休日に郊外まで走りに行く
これら全てを満たすとは限りませんが、同じ価値観のいくつかを内包していれば「自転車乗り」を自認するのではないでしょうか。ここではそういう存在を「所謂自転車乗り」と呼びます。私もこれらの大半を満たしていませんが、所謂自転車乗りです。所謂自転車乗りではない自転車に乗る人のことは「一般自転車利用者」と呼びましょう。なんか選民的思想が漂いそうで抵抗もありますが、主張のために区別が必要なので仕方なく。こんな単純に二分できるものではないことは承知です。両者の間にグラデーションがあることを念頭に置いて、自身がどれくらいの位置にいるのかを考えながら読んでもらえたらなと思います。
自転車について論じるは所謂自転車乗り
一般自転車利用者は自転車の話をしません。特段論じる必要がない、日常生活の一部だからです。彼らは自転車に関心がありません。
所謂自転車乗りはいつも自転車のことを考えています。当たり前です。自転車が好きですから。だから自転車について語り、意見を表明します。取り巻く環境、社会に対して憂いもあるでしょう。好き故に真面目に考えています。
所謂自転車乗りは少数派である
アメリカ オレゴン州ポートランド市の職員であるロジャー・ゲラー氏のレポートで自転車利用に対する意識について4通りに分類されています。
| 興味はあるが懸念がある(Interested but Concerned) | 60% |
| 絶対に無理(No Way No How) | 33% |
| 熱心で自信がある(Enthused & Confident) | 7% |
| 屈強で恐れを知らない(Strong & Fearless) | 1%未満 |
※引用元 https://nacto.org/wp-content/uploads/2012_Geller_Four-Types-of-Cyclists.pdf
所謂自転車乗りは「屈強で恐れを知らない」と「熱心で自信がある」に分布するのではないでしょうか。そして、日本において一般自転車利用者は「興味はあるが懸念がある」が占めます。日本では歩道走行の歴史から「懸念」が解消されているからです。故に、我々、所謂自転車乗りは自転車利用における少数派です。
所謂自転車乗りは一般自転車利用者に比してケアを必要としていない
熱心で自信があったり、屈強で恐れを知らないからです。というのはそのまんまで乱暴ですが。私たち、この現状において自転車を楽しんでます。どこでも楽しく快適に走れる環境ではありませんが、楽しく走れる場所まで行って、勝手に楽しく走っています。そんな所謂自転車乗りがその関心故に自転車について多くを語り、一般自転車利用者は多くを語らないことから、一般自転車利用者の声は相対的に小さくなります。
所謂自転車乗りのズレ
この話をしたかったんですよ。我々、ズレてたりしませんか?という話です。しばらく例え続けます。
例えば、自転車走行空間の計画や実装について評価するとき、30km/h巡航を基準に論じていませんか?一般自転車利用者は15〜20km/h前後で走っています。そういう場では我々、所謂自転車乗りも弁えて20km/h前後で走ればよいです。出せるなら出せばよいですが、私だって時にはそうしますが、そのお膳立ては期待できません。郊外まで足を運べば存分に30km/h巡航できます。今までもこれからも、楽しく走れる場所まで行って、勝手に楽しく走るんです。弁えろ。です。
例えば、ヘルメット着用について、所謂自転車乗りの自転車利用を念頭にリスクを評価していませんか?努力義務化で随分と増えましたが、それでも一般自転車利用者の大半はヘルメットを着用していません。日常生活の一部だからです。特別な危険な行為ではないからです。勿論、日常生活にも危険は潜んでいます。しかし、それらを内包して全てが日常なんです。着用の有無を比べるならば着用が良いに決まってます。しかし、その圧が自転車利用を忌避する理由となっては本末転倒です。「そんな奴らは自転車乗らなくて結構」みたいな論も思いつきますが、そういう論に対してはまた別に何かを書くかもしれません。書かないかもしれません。所謂自転車乗りは、所謂自転車乗りになるまでは、大半がヘルメットを着用していなかったはずです。
例えば、ロードレイジの告発に対して、所謂自転車乗りの自己防衛や処世術、規範、危険感受性で論じていませんか?所謂自転車乗りは手を伸ばせば届く距離を自動車が走っていても気にしません。日常です。でも、自転車通学の中学生のすぐ横でそうなっていたら危なっかしく映るでしょう。心配です。その感覚を意識に留めておきませんか。
例えば、交通ルールの遵守について、所謂自転車乗りの技術、知識レベルを前提に論じていませんか。勿論、交通ルールは守るべきです。しかし、自転車を取り巻く交通ルールは極めて難解です。所謂自転車乗りの間でも見解が割れることがあります。勿論、交通ルールは守るべきですよ。でも、それは個人の視点です。社会の有り様を論じるとき、「どうやって守ってもらおうか?」または、「どうやって守られないことによる害を軽減するか?」という視点が必要になります。「どうやって守らせよう?」に対して「守るべきだ!」では答えになっていません。当事者の圧倒的多数派である一般自転車利用者の視点に立つことは必須でしょう。そのまんま迎合するという意味ではなく、彼らに対してどうアプローチするかが重要だということです。
例えば、サイクルツーリズムの推進で自転車利用を推進したつもりになっていませんか。これは所謂自転車乗りというよりは、所謂自転車乗り属性を帯びていたり、その声を受けていたりする為政者の話でしょうか。所謂自転車乗りは相対的に声が大きいわけですから、そうなります。サイクルツーリズムは有意義です。経済効果も期待できましょう。でも、それは日常の自転車利用とは別世界です。それはそれ、これはこれです。日常の自転車利用への十分なケアが成されたならば、日常の自転車利用からサイクルツーリズムまでのグラデーションが形成されるかも知れませんね。そうなるといいなって思います。そうなれば一般自転車利用者と所謂自転車乗りの分類なんてものも必要なくなることでしょう。
自転車について論じるは所謂自転車乗り
ね?こんなもの書いちゃってるくらいですから。一般自転車利用者には是非とも声を上げて欲しいなと思いつつ、先の自転車青切符の際にはそういう流れがありましたよね。その点では有意義な面もあったのかなと思います。彼らの言葉にこそ耳を傾けるべきなんです。我々、所謂自転車乗りのことは放置で構いません。勝手に楽しく自転車に乗りますから。所謂自転車乗りの面々に置かれましては、自身の属性を自覚して、一般自転車利用者の足を引っ張らぬよう意識して頂きたく、自戒を込めて。































